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龍馬脱藩、どの道を通ったの?―西予市城川町川津南を見る―

2008/6/4(水)

           
用事のついでに黒瀬川の谷を遡ってみたところ、龍馬など
勤皇の志士の時代を思い出させるものに出会いました。
檮原村の宮野々関を越えてのち、はたして
○松ケ峠→韮ケ峠→榎ケ峠→封事ケ峠→水ケ峠→泉ケ峠→宿間→長浜の旧・河辺村コースか
○九十九曲峠→大門峠→古市→土居→甲ケ森→辰ノ口→坂石→長浜の旧・高川・土居村コースか
(但し、ここで特に論じたものではありません、あしからず)



程野の奥の、もっとも
上部の棚田、
田植えの準備が
整っていた。

この案内板は、車で行く人のためのもので林道脇に立つ。往時の山道はこれより東側の「大麦」を通る。
その昔、庄屋の若者が、大麦の「音なし穴」で出会ったお姫様と結婚、庄屋も村人たちも大いに栄えたが、
そのお姫様の正体は、音なし穴の大蛇であった、という伝説が程野に残っている。
田の岸にいた縞蛇は、車の窓から70センチほど、この伝説を思い起こさせる。

「城川町史談会」が平成7年5月に建立したもの。その向こう岸も棚田。予土県境の尾根は時雨れていた。

←「福松居宅地」石塔の裏面。



今では、
草深い山里である。


すぐ近くには、
姿も不明瞭な
石仏のようなもの。

「程野」の下流「成」の
「川津橋」

川津橋を振り返る。
← 「大門峠」に立つ石塔。



峠の向こうでは、
乳牛を積んだ車が
カーブで切り返しを
繰り返していました。

大門峠を下手から見る。

大門峠から下、つづら折りの道路。
      『高川郷土誌』(高川公民館1968)によれば、次のように記されている。

      「土佐勤王之志士脱藩之遺蹟と九十九曲峠」
 文久二年三月二十四日、土佐勤王党之志士坂本竜馬ら四人、武市半平太の唱える勤王党に加入して、河田小竜の示唆を受けて遂に脱藩の意を決し、檮原村宮野々口の番所を脱出し今日、予土の国境九十九曲峠の秀峰を越え、此所を最後の地として脱藩した。
「我ら再び生きて故国土州の土を踏まず」と峰に立ちて叫び、峠を降りて川津南邑を通り大門峠から黄幡城址へ続く山路を峰伝いに過ぎ、日吉村に出て一泊、宇和島方面に出たのが真実の説である。
 これと前後して脱藩した烈士は十二人、いずれも九十九曲峠を越している。
 彼等は人目につかぬように、別々になって参集する場所を示し合い諸所の要所を脱出した。
 坂本竜馬ら四人は日吉村に出て、現在の日吉屋、河野氏宅で泊まったという説が遺っている。
 一行十二名、烈士の氏名は次の通りである。
 坂本 竜馬  吉村寅太郎  千屋菊太郎  松山 深蔵  田所 任輔  沢村惣之丞
 上岡 胆治  尾崎幸之進  安藤真之助  中平竜之助  那須 俊平  千屋 金策
以上の氏名は、檮原の郷土史研究家、中越穂太郎氏の竜馬脱藩によるものである。
 竜馬は青年時代、江戸神田お王ケ池にある千葉周作の道場に入門、北辰一刀流の免許皆伝であった。
 その他の竜馬についての逸話は諸所においても遺されていないようである。
 天保六年長岡郡の戈谷村戈谷屋と称する酒屋に生まれ、戈谷梅太郎といった。
 武市瑞山(半平太)の勤王党に加入、河田小竜の示唆を受けて脱藩、勝海舟の門に入りて航海術を研究し、舟中八策を提唱した。
 国事に奔走中、幕吏に襲われて、中岡慎太郎と共に京都にて刺殺される。年三十三.
 時は慶応三年であった。
 竜馬は大政奉還を建議して、明治維新に当たり五ケ条の御誓文の政体書の起草に協力し、その草稿は竜馬によって創られ、福岡孝弟の書になるものという。
 九十九曲の峠から少し下りた所に大杉の古木がある。この杉はその時に竜馬が一休みして、小便をかけて立去ったという伝説があり、これを竜馬の「小便杉」とよんでいる。
 また、日吉村で泊った時のことを、河野のお婆さんはこんなに話していたという。
 「一行四人のうちで、色が黒くて鼻の低い、頭髪の縮れた眼の鋭い背の高い侍がおったが、あれが坂本竜馬であったに違いない」
 その後、宇和島地方で戈谷梅太郎と名乗る浪人者があったというが、これは偽物で、本物の坂本竜馬ではなかったらしい。

      「九十九曲峠を越えて脱藩せる土佐勤王党の烈士について」
 文久二年三月六日、檮原村宮野々口番所を脱走した、吉村虎太郎が脱走一番乗りである。その後、天誅組に加入して、文久三年九月二十六日、大和五条の戦乱に戦死した。
 彼は脱走する時、白馬にまたがりゆうゆうと「主命により吉村虎太郎まかり通る」と大声を発して通過したという逸話が残っている。
 那須俊平、中平竜之助共に忠勇隊に参加して、元和元年七月十九日に戦死した。
 坂本竜馬一行四人とあるが、他三人の氏名は判明していない。
 藩命に依って、脱走した竜馬らの後を追って来た藩士、朝倉某が休んだという所を(朝倉休場)または桜休場という。
 峰回水遠幾湾々 拙堂緑節続桜間
 九十九磐何所路 逢耕人指土州山
 迎川津南途上 青石漁人題
と、小さな板の鏡掛に書いた書が、川津南の旧家、芝久寿氏宅に蔵されているが、脱走した烈士か、また追って来た藩士かのいずれの者であったか……という事である。
 武市半平太、文政十二年に生まれ、桃井春蔵の門に入り剣術の修業をなし、剣聖であった。勤王論を唱え、慶応元年五月藩命により切腹す。時に三十七歳也。

右上方より、脱藩の経路とされる、宮野々関所(檮原町)→九十九曲峠→龍馬の小便杉
→程野の「福松居宅跡」→大門峠→高野子を経て、土居方面へ。
九十九曲峠のつづら折りの山道は、昔、中学校の遠足のとき、その数を数えながら下ったものだが、途中
であきてしまい、正確な数は不明のままであった。また、峠の向こう高知県側は広大な萱原であった。
現在は、杉檜の造林地となっている。また、小便杉の直下を大規模林道が通っている。
       『城川町誌』(城川町1976)には、次のように記されている。

  坂本竜馬のこと
 高川地区
○竜馬脱藩
 竜馬は脱藩のとき梼原宮野々口、番所を経て伊予にでて船で渡ったが土佐勤王の志士たちはほとんど宮野々口の番所を通っている。
 そして伊予に出て長州に行くのである。吉村寅太郎は白昼馬にまたがって「大守様の御命により」とうそを言って堂々とこの番所を突破しているが他の脱藩者は深夜こっそりと忍びぬけであり、竜馬も忍びぬけの一人であるので、梼原には竜馬の脱藩による逸話はのこっていない、白昼堂々の寅太郎は多いが……伊予で宿泊したことについてはこちらでは何の語り伝えもありません。(梼原町郷土史家中越穂太郎氏談)
 土佐勤王党の志士坂本竜馬の一行四人高岡郡梼原村宮野々に集合、時に文久二年三月二十四日予土の国境九十九曲峠を越え、ここを最後の地として脱藩川津南を経て大門の峠より高野子六十山黄幡城につづく山路を峰づたいに北宇和郡日吉村に出て日吉屋で泊ったという。この脱藩者竜馬たちを追ってきた土佐藩士、朝倉某たちが休んだといわれているところが峠をくだった眺望のよい峰先に今も、「朝倉休み場」と称するところが残っている。
 そのとき竜馬、小便をかけたと伝えられる大杉あり、これを竜馬小便杉という。号青石、中岡慎太郎の書と伝えられる九十九を去る云々と書いた鏡掛が川津南の旧家芝久寿氏に蔵せられている。
 日吉屋の先代のおばあさんの話によると、竜馬は頭髪のちぢれた、色が黒く鼻が低く眼が光っていたことが印象に残っていると常に話されたそうである。峠に建てられている歌碑は
 寺石正路氏の詠で
ふたたびと帰り来ぬべき故郷を、出でし心はいかにありけん=i高野子 西本雪峰氏談)
 
 土居地区
○維新志士往来
 『土佐梼原勤王烈士伝』に、
 靖国神社に合祀し贈位された正四位吉村寅太郎、正三位那須俊平、正六位中平龍三郎の諸氏が、伊予土居矢野方に止宿した。
 と記されている土居の矢野方とは、土居ミナミにあった蘭医矢野杏仙邸であった。
 矢野家はもと窪野の片平の出であるという。祖父閑斉も医師で片平に落ちついたのが始であると伝えられている。
 杏仙は文化八年の生まれ、若くして志を立て長崎に遊学した。大洲藩奥医師菊山逸斉(当時名乗玄渓)も遊学していて、種々杏仙を援助したという。杏仙は学成って帰郷、窪野に開業したが、間もなく土居のハチマンヤジ(後にオイシャヤジ)に移った。新知識を身につけた杏仙は時勢にも目を開いた。国時を憂える志士として郷党を教育し、ひろく近国の志士と交り、シンパとしてパトロンとして諸国にその名が知られるに至った。谷本市郎氏著『市村敏麿伝』に敏麿(古市村、伏越村、中津川の庄屋)が「尊王攘夷を唱える原因」として次のように記している。 始め土居村の国手にして学者たりし矢野杏仙(黙斉)及土佐浪士西春松(西修)に皇謨文武を学び、特に尊王論を注入培養薫陶せられたり、由来古市村は土佐街道の要衝にして土佐浪士の往来繁く、殊に矢野西両師を尋ぬる諸士多く、従ってこれら諸浪士との交りは、両師の鞭撻と相応じて……云々
 右に見るように土佐、長州の一往来路に古市、土居のあったことが志士の止宿会合を多からしめたし、またその要衝に住する矢野杏仙はこれら志士を援護するに絶好な風格を持っていた。菊山嘯一郎氏(九一才)の思い出によれば、父が祖父から聞いた話として、矢野家には勤王志士がしばしば頼って来て会合を開き、高野長英、坂本竜馬も来て宿泊、滞在したこともあったという。
 坂本竜馬が来訪し矢野杏仙家に宿泊滞溜した話は、この地で有名で、多くの古老の語り草になっている。竜馬は土佐の梼原から九十九曲を越えて高川に出、それから中津川を越え土居に出て、矢野杏仙家に泊った。ここを立って甲森を越え、辰の口から坂石港に出る。ここで川舟に乗り大洲を経て長浜港へ到着する。この街道筋が志士往来の要路であったわけである。
 坂本竜馬がこの矢野家を安息の泊所として、連絡の場としたことは確かであるが、残念ながら竜馬資料として残っているものは矢野家にもこの土地にも伝えられてはいない。今はその足どりを山路に見るだけである。矢野杏仙はその令名を残して明治二年八月一〇日五九才をもって歿した。
 法名 南岳院杏林寿仙居士、墓は窪野片平にある。
 矢野邸は残念ながら現在はない。
龍馬脱藩の経路については、(2008/6/9現在)経路が「解明され判明した」とする
「観光ページ」(こちら)
もあるが、現在もなお諸説があり、
以下のページなどで論じられている。ネット上では無数の記載がある。
↓ 
「高知市観光課」の「龍馬脱藩・ゆかりの道」パンフレット関連ページ
(ここでは、旧・土居村、旧・河辺村の両コースを記載している) 
「龍馬堂」の「脱藩の道〜その行程〜」のページ
(写真家前田英徳氏の九十九曲峠説」も紹介)
→ 「矢野杏仙邸跡付近、盛夏」へ
   
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